結局、写真は【光】

写真を始めてから、このフレーズを何度も耳にしましたし、写真を始めて20年近く経とうとしていますが、大方、間違いではないと今でも思います。光だけが大切というわけではなく、写真をつくりあげるうえで、光の役割というのが、どの要素よりもウェイトを占めるということなのでしょう。

光が良い、光が悪い、光がきれい、光が汚い、写真を始めていくと光について論じる機会が増えます。光を、写真をつくるうえで、どのようなものだと自分が位置づけるかによって、自分の写真そのものが変わってきます。

写真において光というのは、わかりやすくいえば、化粧です。化粧は化けるという漢字が使われているように、化粧をほどこすことでいろいろなイメージに化かすことができます。写真撮影において光は化粧です。ある被写体にやわらかい印象を与えることもできるし、威圧てきな印象をライティングによって与えることができます。

光は被写体の印象やイメージの90%以上を決定します。

光そのものに良い悪いはありません。カメラを始めたばかりだと、よく光が分からない、光が合っているのか不安だという声を聞きますが、光そのものに良い悪いはつけられません。

光というのは被写体のイメージを決定づける材料・素材にすぎず、その素材が良い悪いというのは光量や光の質(自然光やストロボ)といった光ソノモノの話です。

写真を見ながら光が良い、悪いというのは、そこ(素材)ではなく、写真に表現したい被写体のイメージが適切に表現できるように化粧をしたか?ライティングをしたのか?、そのイメージに対する手法が最善だったかどうかを意味します。

仮に新鮮なリンゴを腐ったリンゴに表現するために光を使い、結果的に腐ったように写真が撮れた、そうであれば、フォトグラファーが自ら意図した光であり、良い光です。逆に新鮮なリンゴが新鮮なリンゴに見えてしまったら、それは意図した表現ができていないわけであり、悪い光となります。

「どう写したいのか?」

だから結局は光よりも前に先立つのは、フォトグラファーの【イメージ】であり、その【イメージ】がなければ良いか悪いかを決めるも不可能といえます。

 

だから、【フォトグラファーは創造的だ…】その言葉の本質と芸術性の根源はここにあります。

写真は、1+1=2という決まりきった正解を出すものではなく、シャッターを押す、ファインダーをのぞく、その人の感性・イメージで切り取られます。どう撮るのかではなく、何を残したいのか、先行するものは常に自身の創造性であり、表現手法はその後に訪れます。

表現手法だけに目を向けていれば、誰が撮影したのかも分からない写真になってしまいがちです。

イメージだけに集中してしまえば、写真としての芸術性が現れることなく、自身の想いだけが残る写真になります。

結局、この両輪がなければ写真として動き始めません。


彼女の存在を明確に示すために、そこに彼女だけがいることさえ分かればいい。

窓から入る、いつもは使いづらい強い光が、それを表現するためには都合がよかったのを覚えています。

被写体だけに当たる強い光が、周囲を上手く暗くしてくれます。

新しい春、

新たなステージに向かう前のふとした瞬間の彼女は、

あどけない仕草はそこにはなく、

今までに見たことのない力強いまなざしでた。

直接の強い光は、彼女のもつ力強さをより引き出すことで、適切な役割を果たしてくれました。


光は光。

素材はあくまでも素材。

ただ、その素材でどんな絵を描くのか?

まだまだ写真には無限の可能性があるようです。